プロローグ
ある日、あなたはスマートフォンでSNSを開くと、長い付き合いのある友人がそれまで勤めていた会社を辞め、1年前に、あるベンチャー企業に転職したことを知る。投稿には、友人が迷った挙句に決断したことや、どのような希望を持って入社したか、どこに魅力を感じたか、どのような仕事に取り組んでいるのか、1年を経過してどんな思いでいるか、長文が記されていて、フレンドからの多数のリアクションやコメントがなされている。そして、投稿の下には友人が勤めている会社のサービスを紹介するサイトが画像と共に表示されていた。あなたは、友人が思い切って転職した入社先に興味を覚えた。なぜなら、友人が前に勤めていた会社は待遇も良く、誰もがうらやむような大企業だったし、友人自身がそこでは将来を見込まれていたと風の噂で知っていたからだ。あなたは友人が貼ったリンク先にアクセスし、どこかで見た記憶のあるサービス名とロゴ、内容の詳細を目にする。そして、SNSで友人にコメントを送った。「新しい環境で大変かもしれないけど、やりがいのある仕事みたいだね。応援してるよ、このサービス使ってみるね。今度ぜひ話聴かせてね!」。
通勤中にそのニュースを見て驚きを覚えながらも、午前中の仕事を終えて、あなたは友人の勤め先についてもう少し調べようと思った。試しに会社が提供しているアプリを探して口コミを見ると、おおむね高評価が並んでいる。立ち上げて数年のためトラブルは付き物のようだが、スタッフによる適切なサポートやフォローが特に評価が高い要因となっていた。あなたはアプリをインストールして利用登録を行い、アプリに他のユーザーが掲載している商品を購入してみた。元々買おうと思って探していた物だったし、安くはないが妥当な価格だと感じた。職場の若い後輩にこのサービスのことを聞くと、ヘビーユーザーで週末の休みによく利用しているとのことだった。デザインや仕組み、使いやすさ、サポートも良くて色々な人に勧めているが、あなたが使うとは何となく意外だと言った。友人が転職したことを伝えると、「今、急成長の企業だから人手が必要なんでしょうね、忙しくて大変そうだけど楽しいだろうな、うらやましい~」と返した。
数日後、SNSの通知で友人があなたのコメントに返信したことがわかった。「コメントありがとう!久しぶりに会って話さない?来週の土曜日はどう?」―あなたは友人の話や新しい会社のことを聞いてみたかったので、二つ返事で会うことにした。そして、暇があるときはアプリを触ってみたり、会社名を検索して現れる情報を見たり、求人情報や現社員・元社員による口コミサイトのコメントを読んだりした。
友人とあなたは、久しぶりの再会を祝って一通りの近況報告や世間話をした。あなたが会社のことを尋ねると、友人が「うちの会社で働いてみない?」と藪から棒に言ってきたので驚いた顔をしていると、友人は会社に入る経緯に始まり、入社後1年の間に経験したことを筋道立てて、詳しく話してくれた。友人が語った話のほぼ全てがネットに載っている情報と合致していたし、さらに具体的なエピソードなども聞くことができた。特に印象的だったのは勤務初日のことで、同日に入社した数人と一緒に社内で歓迎を受けた後、役員を中心としたコア・メンバーが熱心に会社の目指すところや仲間に期待していることを明確に伝え、かつ、自分たちの話もよく聴いてくれて信頼関係の構築を心がけていることが、よく伝わったということだった。全社員が多忙な日々を送っていて、組織で働く上ではつきものの多少の不満を持つ人もいるが、そういった相互を理解しようとするコミュニケーションを欠かさないし、今度は自分たちが新しい社員を歓迎する役割を担うのだと嬉しそうに言った。ネットに書かれていた問題点についてそれとなく質問したが、社内サポートの役割を持つスタッフが定期・不定期に社員と面談の機会を設け、情報を吸い上げて改善が繰り返され、職場環境を良くしようとする努力が常にされていると友人は答えた。
中途入社にありがちな、入社後のOJT中心の教育だけで後は放置されるのではなく、週に一度、部内で「ノー・レイティング面談(※)」が行われて慣れない仕事が円滑に進むような仕組みがあり、定期的に開催される社内講師による研修は希望すれば誰でも受けられる。
※No Rating:順位付けしない評価面談、あるいは、年に一度しかない業績考課面談を止めること。上長や同僚から直近の業務や成果に関するフィードバックが行われ、困っていることや悩みがあればアドバイスや適切なサポートが受けられる。
また、会社全体に関わる問題や制度については役員に直接相談し、提案できる環境もあるという。余裕が出てくれば社内講師になって、前職での経験や最新知識・スキルを共有する場も作れるので、教育環境が整っているだけでなく、自己のキャリア開発にも柔軟に取り組めると友人は説明した。さらに、何らかの理由で会社を辞めることになったら、希望すれば、人事の役割を担うスタッフが上長や同僚に対するヒアリングを行い、「推薦書兼アドバイスレポート」を作成してくれ、さらに、取引のある会社や役員・社員が「良い会社」と思う企業情報が掲載されたリストが渡され、再就職に関するサポートが必要に応じて行われる。そして、退職面談の最後にそのスタッフから「もし戻って来たくなった場合」の連絡先を教えられ、退職後も会社に関する情報を発信したり、連絡したりしてよいかどうか尋ねられるのだという。友人は、その話をお世話になった先輩から聞いたと言った。その人は、たまたま親の介護の関係で実家に戻らないといけなくなったが、会社の退職サポートのおかげで、地元で柔軟に働ける職場が見つかり、親のことが落ち着いた数年後に会社に戻って来た。もちろん、全員が円満に退職するわけではないけれども、大切なことは入社前から退職する時まで、社員が一緒に働く仲間として扱われ、敬意を払われ、色々なことを気遣われ、必要に応じてしっかりとしたステップが用意されているということだった。
あなたは一通りの話を聴き終えると、「私が働いている所とはだいぶ、というか、まったく違うね」と言った。友人は笑いながら、自分も前の職場とあまりにも違いすぎて、良い意味で衝撃を受けたらしい。社長が中心になって、「ユーザーに対して良いサービスを提供するには、働く仲間に対して出来る限りのサポートを行い、生産性を上げる組織環境を整えることが最優先だ」と繰り返し訴え、それを具体的に落とし込む文化があるのがポイントだと思う、と友人は言った。入社当初、友人の給料は前職に比べて下がったが、職場の雰囲気や仕事内容、やりがいを踏まえると納得して受け入れられたし、2年目になって社内のバランスを考慮した上で、給料が上がったという。
別れ際に、「興味があったら一度会社に見学に来てみて」と名刺を渡された。そこには、友人が掲げるスローガンと一緒に、自然な笑顔の写真が載っていた。
「エンプロイヤー・ブランド」の経験
この物語は、「顧客」と「求職者(採用候補者)」、そしてある組織で実際に働いている「現社員」(インターネット界隈の、いわゆる「中の人」)の3つの視点を意識して書かれたものである。
「あなた」は何気なく開いたSNSで、友人が勤める企業のサービスを知り、興味を持ってアプリを使用する。元々、どこかで見かけた広告によって記憶にもあり、「試してみよう」と思い、その使用感を覚える。そして、後輩の口コミでサービスの浸透具合を知り、使用する価値を確認した。これは一人の消費者としてどのような人々にも起こりうる、「商品(サービス)ブランド」の経験である。この経験を通じて、人は特定の商品やサービスに対する価値イメージを形成し、ブランドへの信頼感を持つに至る(ブランドは、「焼き印」を意味する)。
一方で、「あなた」は、大企業に勤め、将来を約束されていた「友人」がそのサービスを展開するベンチャー企業に飛び出して行ったことにも興味を持つ。転職を考えたかどうかは別にして、あの「友人」が勤め先として覚悟を持って選んだということから、その会社にどのような魅力があるのか、純粋に知りたいと思っただけかもしれない。今では、多少名の知れた企業であればインターネットに様々な情報が載っているため、内外から見た企業の実態を、一定程度まではつかむことができる。
そして、実際にそこで働いている「友人」から詳細を聴く。それは、入社前から入社後1年のしっかりとした時間と根拠のある話であったし、先輩社員が経験した、「退職」から「同じ会社への再就職(ブーメランとも言う)」の話も聞き、さらには自分が持っていた疑問を解決することで、「あなた」は企業の姿を実感する。
自分のことをある程度知っている人から「一緒に働かないか?」と誘われて、「あなた」はどう反応するだろうか?
この、「あなた」と「友人」がそれぞれ実際目の当たりにして、耳にして、頭と心で確信した一連の出来事によって作られたイメージが「エンプロイヤー・ブランド(雇用者としてのブランド)」であると言える。エンプロイヤー・ブランドは、決して「採用」だけに影響する概念ではない。求職者としての立場から、入社後に社員として経験・享受する諸々の価値(経済・心理面含む)、そして退職(あるケースでは、同社への再就職)という、一連の流れを総合的に捉えた概念である。この一連の流れを「雇用ライフサイクル」と言い、エンプロイヤー・ブランディングは雇用ライフサイクルに対して全体的なアプローチを行って、サイクル上の重要なポイントを意識的、かつ、具体的に改善・強化をなす。
これまで、多くの企業が「商品・サービスブランド」を重視して、「顧客経験」(「ユーザー」を含む)の改善と強化に多くの投資を行ってきたし、そのことが成否はあれども、企業に利益をもたらしたことは間違いないだろうと思う。今後の流れとしても、止まることはない。しかし、「良い顧客経験を生み出すために必要なものは何か?」をよく考えた場合に、そのサービスを提供する側にいる人、つまり、従業員や社員と呼ばれる働き手のことがないがしろにされてしまうと、望むような結果は生まれないかもしれない。
近年の「働き方改革」の動き、そして、まさに現在注目されてきているセクハラ・パワハラ等のハラスメント対策について、エンプロイヤー・ブランディングとの関連性を見る向きがあるかもしれない。サービス残業の問題がなくなり、意図的で悪質なものから何気ない会話の中に潜むものまで、ハラスメントがなくなれば職場環境としては当然良くなるだろう。しかし、終局点として、その企業で働く人は友人や知人に、一緒に働く場として自社を勧めるだろうか? また、そこで働いている人たちは、自社で働くことに誇りを持ち、モチベーションを維持・向上するチャンスを得て働いているだろうか? そして、何かしらの理由で辞めてしまった後も、自社で得た経験を自然な前向きさで捉えられているだろうか? エンプロイヤー・ブランディングの目指すところは、これらの問いに誠実に答え、企業の「働く場としての価値」を常に高めていくことに他ならない。
ほとんどの場合、ある問題を生み出しているそもそもの原因になっている人たちが、これまでと同じ目線や視座で問題解決を図ろうとしていることに一番の問題がある。その解決をするためには、解決に大きな役割を果たす人の意識や認知(世界や物事の見方)を、次の発達段階へとアップデートしなければならない。エンプロイヤー・ブランディングは、その一助となる概念かもしれない。
エンゲージメント(つながり)の強さ
ここ最近、「エンゲージメント(Engagement)」が注目され、各種の記事やセミナーで用いられ始めている。元々は「婚約」を意味する言葉だが、「つながり」や「絆」などの「関係性の強さ」という意味合いで使われる。会社と従業員の間にエンゲージメントがあれば、働く人は夢中になり、熱意を持って仕事に取り組む。さらに、自社と従業員との間にエンゲージメントが築けていれば、従業員の離職率は下がるし、モチベーションを保って生産性が向上する。自社と従業員にエンゲージメントがあるかどうかを確かめ、もしなければ生産性が低い理由やモチベーションが上がらない要因に結びつけて、課題を考えて行くことになる。
2013年に米ギャラップ社(世論調査や人材コンサルティングを手掛ける)が実施したエンゲージメント調査では、世界の働き手(ワーカー)のわずか13%が「自身の仕事にエンゲージメントを持っている(熱意を持って仕事に取り組んでいる)」という結果だった。63%はエンゲージメントがなく、24%は積極的に「婚約破棄」をしている、つまり、自覚してやる気なく仕事に取り組んでいるということだ。
日経新聞オンライン2017年5月26日付けの記事を引用しよう。
“米ギャラップが世界各国の企業を対象に実施した従業員のエンゲージメント(仕事への熱意度)調査によると、日本は「熱意あふれる社員」の割合が6%しかないことが分かった。米国の32%と比べて大幅に低く、調査した139カ国中132位と最下位クラスだった。企業内に諸問題を生む「周囲に不満をまき散らしている無気力な社員」の割合は24%、「やる気のない社員」は70%に達した。”
顧客経験を良いものにして商品イメージの構築に成功し、顧客ロイヤルティを高める(ファンを作る)ことが、企業の売上と利益に直結することは疑いがないだろう。法人営業担当者であれ、コンビニの店員であれ、カスタマーサポートのオペレーターであれ、彼・彼女らのやる気のない態度や言動に接すれば、顧客ロイヤルティは下がるし、代替品や他サービスがあれば鞍替えする。より良い顧客経験につながる前提として、働く社員の職務満足度の高さ、生産性の高さ、そして離職率の低さが必要なプロセスとして存在するのは間違いがないだろう。外部からは見えないこのプロセスの改善こそが経営のカギであり、社員が職場で経験することをより良くする意味が見出せるのではないだろうか。
「よしわかった! ならエンゲージメントを高めればいいんだな!」と安易に飛びつくのは構わないが、そのアプローチは簡単ではない。エンゲージメントにのみ着目して打つ手は、やはりこれまで通り断片的で「次がない」ものに終わってしまう可能性が高い。もちろん、やらないよりはマシかもしれないが、エンゲージメントを高める施策をより上位の戦略的観点による各取り組みへと組み込む方が、生産的な結果につながる。エンプロイヤー・ブランディングは、社員の職場での経験に対して全体的、かつ、体系的なアプローチを行うため、それまでバラバラに統一感なく行われてきた具体的な取り組みを、統合して一つの「美しさ(整ったイメージ)」に仕上げることになる。
「従業員経験(EX=Employee Experience、従業員エクスペリエンス)」について
ここで、「顧客経験」に対する概念として、「従業員経験(EX)」を「ある企業で働いたことがある人が、その企業を通じて得られた経験全体」という意味で用いたい。「従業員経験」は、社長(トップ)や上司・同僚・後輩を含む人間関係、労働時間や待遇・評価・福利厚生を含む労務環境、デスクや椅子の使いやすさ、PCの質、基幹システム、室内の清潔さ、通勤アクセスなどの物理的な職場環境、顧客、取引先、ステークホルダーなど、従業員として働く間に接する有形・無形のもの全てを含む。
「従業員経験」は、働き手の認知や会社に対する愛着に影響を与える。一度形づくられた認知と愛着は、会社におけるその人の「行動」に作用する。また、従業員が入社後にどう行動するかはエンゲージメントに強く関係しており、結果として成果に結びつく。ただし、成果はエンゲージメントの質によってプラスに振れるかもしれないし、マイナスに傾くかもしれない。
「またぜひ使いたい」と思えるような、素晴らしい顧客経験が偶然には起きないのと同じように、従業員経験も偶然良いものにはならない。営業メンバーが「プラスの従業員経験」を得て職務満足度が上がれば、顧客に対してもプラスの経験を持ってもらいたいと思える余地は十分にある。惨めな思いしかしていない営業メンバーは、「何のために苦労しているのか?」と仕事本来の目的を見失い、自社と顧客を見捨てて、より良い職場を探し始める。
「プラスの従業員経験」を創るために
それでは、どのような考え方に従って「プラスの従業員経験」を創り上げれば良いのだろうか? 繰り返しになるが、まず、「経験が私たちの態度を形づくる」ということを前提として認識する必要がある。「態度」とは、従業員がその仕事を気に入っているかどうか、自社で働くことに前向きかどうか、人間関係をどう捉えているかなど、自社に対する考え方や感じていることを指す。そして、「態度」が「行動」を決め、「行動」がプラスなり、マイナスなりの「成果」を生む。その「成果」とは、自社への貢献でもあり、顧客への影響から生まれる結果(売上高と利益)でもある。
この「経験→態度→行動→成果」という一連のプロセスを見た時に、ほとんどの会社では、行動や成果ばかりが注目される。そうなると、「売上が低い」とか「〇〇をしていない」とか、「△△さんはだからダメなんだ」とか、氷山の一角でしかない表層的な部分でいつまでも堂々巡りしていることになる。現状起きていることが、「経験→態度→行動→成果」の表れなのだとシステム的にとらえると、自問すべきことは「うちの従業員は、自社で良い経験をしているだろうか?」に尽きる。成果を変えるには、行動が変わらなければならない。行動を変えるには、態度が変わらなければならない。態度を変えるには、経験が変わらなければならない。このことは、近年提唱されている、「70:20:10の法則」(人が成長するための学習は、経験が70%、他人からの薫陶・教育が20%、外部研修・セミナーが10%という割合によって起きる)に親和していると思える。
「雇用ライフサイクル」へのアプローチにおける経営陣(リーダー)の役割
「従業員経験」に着目することはわかったが、ではどうすればよいのか? 次に頭に入れておくべきことは、「雇用ライフサイクル(Employment Lifecycle)」である。これは、前述したとおり、従業員が自社入社前の採用時から、入社時、入社後、そして退職(ある場合は、復職)までの経験を一連のサイクルで捉えた概念である。
【雇用ライフサイクルイメージ】
近年、若年層の離職問題について関心が特に高まっている。将来的な人手不足を見据えたときに、若い世代が入っては辞めていくことを繰り返せば、やがて企業は存続出来なくなることが明白だからだ。巷では声高に「七五三現象」が叫ばれる(大卒が3年以内に離職する割合は3割、高卒で5割、中卒は7割)。もちろん、どのような業界・企業にも当てはまるわけではなく、「人離れ」が起きやすい業界があり、企業がある。
しかし、今が良いからと言ってそれが自動的に続くわけではないし、今が悪くてどうしようもないからと放置していれば悪化するだけである。多くの企業では、従業員の採用・定着の成否、離転職の問題を人事という縦割りの一部門だけで考える傾向にある。大企業のエリートコースには人事配属が含まれる時代があったし、人口増加曲面においては、カネの問題さえある程度クリアできれば、最重要経営資源としてヒトを掲げることになり、採用、異動、評価、教育を司る人事部門がパワーバランス上の枢要を占めたことは理解できる。
ところが、もはや時代は変わった。
かつて「三種の神器」と呼ばれた家電が人々の生活様式に与えたインパクトと同等か、それ以上にインターネットとスマートフォンの普及、そして通信技術のめざましい進歩が、人々の価値観や生活、行動様式にまで影響を与え、それらのビジネスにおける重要性が劇的に高まっているのは、もはや今この瞬間の話ではない。
経営陣によるITへの理解(必ずしも本人が使えなくとも良い)と、インターネット世界において「自社をめぐって」何が起きているか把握することは、今後は経営上の重要課題になるだろう。私は何も「自社の株価」や「ネットメディアの特集記事」について言っているわけではない。「雇用ライフサイクル」の全体に、決して無視のできない影響を及ぼしているのがインターネットとスマートフォンであることを言いたい。例えば、求人募集をかけたとして、それに応募しようとする求職者がどんな情報に接するだろうか? 発信元が信用されている一般公開情報の他、SNSや匿名掲示板では個人的な見解や情報を入手することができる。さらに、複数の人材採用サイトが特定企業の口コミを掲載しているが、「従業員経験」を実際に持つ人によって会社の実態がややマイルドに、時にストレートに伝えられている。しかも、それは必ずしも真実とは限らない。
会社について好き放題に書かれている現実を知って、経営者が考えることは大きく3つだろう。1つは「口をふさぐ」ことだ。犯人探しにやっきになり、SNSや採用サイトへの口コミ掲載を従業員に禁止するパターン。だが、退職した従業員や既存従業員が会社の実態を公開したことについて、何を強制できるというのだろうか。人の声とは水のようなもので、ふさげば溜まり、やがて洪水や氾濫を起こす。2つ目のアプローチは、「放置」「見なかったことにする」である。気にはするが、特に何もしない。あるいは、忙しくて何も考えたくない、というパターン。最後は、「現実を真摯に受け止めて改善の努力をする」ことだろう。地道だが、普通の感覚ならこれしかない。大企業であれば多数の人が働いているのだから「一つの意見」程度で済まされるかもしれないが、社員が数人~数十人規模の中小企業では致命的だろう。
「雇用ライフサイクル」の観点から、自社をめぐって従業員が経験することを総合的に捉えることの意味は、局所的な対策では効果が小さい可能性が高いということである。
では、「雇用ライフサイクル」を、全体的、かつ、戦略的なアプローチで改善するには、どうすればよいのだろうか?
ほぼ全ての企業が「人事にやらせよう」「総務にやらせよう」「担当者に任せよう」といった回答を出すかもしれない。しかし、ベストの「顧客経験」を創り出すためなら、経営者は自ら執拗に、時に異常なほどに追求する。なぜなら、それが「会社の生命線」だと感じているからだ。オーナー経営者であれば自分の会社をつぶすわけにはいかない、自分が突っ込んだ金をどぶに捨てたくはない。雇われ社長であっても、自らの評価に関わるため、原因と責任追及は立派にやる。
結論から言えば、「顧客経験」を創る観点で人事や総務などの一部門だけで取り組む時代はもう終わった。断片化された業務に従事してきた人事部門には十分な予算も、余力も、気力もない。唯一、挑戦する気概のある人事担当者がいれば望みはあるが、エンプロイヤー・ブランディングはそのような一社員だけに任せるものでもない。基本的には、経営者がオーナーシップをもって、ベストの「従業員経験」を創る目的でプロジェクト化し、部門横断で機能的なチームを創ることが望ましい。入社した社員は、あらゆる部門・現場に関わることから社内の多様な視点が必要であるし、採用から入社、教育、入社後の成果創出について全社的に意識を持つには社員を巻き込むことが近道だろう。その旗振りと音頭取りは、経営者以外誰ができると言うのか。
「従業員経験」を評価する
「従業員経験」を改善するにはどこから始めれば良いのだろうか? もちろん、現状把握・分析から始まる。自社の「働く場としての価値」を従業員がどのように捉えているか、「従業員経験」の評価を通じて明らかにする必要がある。基本的には全社員に対して質問票による調査をし、余力があれば面談等を通じてインタビューを行って、定量的、定性的に全体像を浮き彫りにすることが妥当だろう。
質問調査においては「雇用ライフサイクル」に基づいて各段階における「接点」を具体化し、質問項目やインタビュー内容を策定する。「接点」とは、例えば求職時に情報を得たインターネットサイト(自社・媒体・SNS等)や、入社初日のオリエンテーション、教育担当とのコミュニケーション、社長や上司の印象についてなど、「従業員経験」にひもづく項目を考えられる限り挙げる。退職・復職は、経験がある従業員とそうでない従業員に分かれたり、人によっては特定の経験が無かったりするため、回答項目には留意する必要がある。
「雇用ライフサイクル」全体の評価傾向を把握できたら、それぞれの「接点」について改善案を検討する。例えば、「初期教育」の評価が著しく低い場合は、教育内容や担当講師、期間、教育スタイルについて変更や改善を行う。そして、改善後に入社した従業員群を対象に調査を行えば、改善の効果を検証することが可能となる。
「従業員経験」改善における11の問題
現状評価を基礎として、「従業員経験」を改善し、「雇用ライフサイクル」を最適化するためにはどのようなハードルがあるだろうか? 立ち向かうべき11の問題について、以下に挙げる。
①就業中の従業員が会社に抱いている期待が不透明である
「雇用ライフサイクル」における従業員のニーズを満たすためには、従業員が自社にどのような期待を持っているのかを明確にする。
②従業員が持つ企業に対する感情的な結びつきに、どの「接点」が最も影響を持つか理解できていない
従業員の感情面はともすると無視されがちだが、経営者は自分自身を振り返ってみればわかるのではないだろうか。自分を突き動かすのは、重要な意思決定がなされるのは、常に感情が密接に関係していたと。従業員は木や石ではない。経営者の人間観が問われる部分だろう。
③従業員にとってあまり意味を持たない「接点」に過剰投資(時間、エネルギー、費用)し、最重要である「接点」に過少投資していないか、把握していない
打つ手が当てずっぽうで、断片的であるとこのような結果となる。
④「従業員経験」をより良くするため利用しているITツール等を過度に信頼している
コミュニケーションを効率化するために使用しているITツールは、どこか使う人の心を無視したものになっていないだろうか。度が過ぎれば、合理化や効率化は「疎外」を生み、従業員と会社の結びつきを弱くする。
⑤自社の組織文化が弱く、魅力的でない
経営者が掲げる価値観や理念は、どれだけ従業員に浸透していて、日々の行動に反映されているだろうか。組織文化レベルで経営理念や経営者の考え方が明確に実感できていなければ、単なる飾られた額に過ぎない。
⑥ブランド力をどのように強化するかというテーマについて、経営者の理解・経験が浅い
特に中小企業経営者は、営業系または技術系に特化しているタイプが多く、それ以外のことに疎い傾向がある。疎いなりに、コーポレート・アイデンティティ(CI)への意識や理解が多少あれば良いが、「そんなことをやって売上が上がるなら苦労はしないんだ」などの言説が聞かれると、それだけでエンプロイヤー・ブランディングの壁はかなり高くなる。
⑦企業が持つ各ブランド担当責任者間で、コミュニケーションが不足している(担当者間で連携ができていない)
縦割りの大企業では起こりがちかもしれないが、各自が担当しているブランドがすべてだと思っていたり、ブランド間でパワーバランスが生じているとより難しい問題になるだろう。ブランド間の連携が取れなければ、エンプロイヤー・ブランディングの取り組みがバラバラになってしまう可能性が高い。
⑧「従業員経験」の改善(ひいてはエンプロイヤー・ブランドの改善)は、優先順位が低いと認識されている
目先の問題に追われてモグラ叩きに終始し、疲弊していると長期的な視野の取り組みは難しい。
⑨「従業員経験」の改善業務に対する評価が低い、または、そもそも評価制度が無い
エンプロイヤー・ブランディングの取り組みに経営者の理解がなければ、そもそも評価されない。失敗もしたくないので、誰も取り組まなくなる。
⑩改善に取り組むための十分な予算が確保されていない
誰がどのように予算を確保するか。人事部門だけでエンプロイヤー・ブランディングに取り組むことが危険なのは、やはりお金の部分だろう。企業でも行政でも、「金の切れ目が組織の切れ目」であり、予算配分が自他の意識を分ける。これも経営者の理解が必要となる。
⑪ITリテラシーが時代遅れ、または、無い
トレンドが目まぐるしく入れ替わるIT社会では、あらゆる分野で常に最前線でいることは非常に難しい。しかし、難しいなりに、組織的に学習していく姿勢は欲しい。
以上の課題を、すべて同時に解決することは不可能であるし、企業によっては永遠に解決されないテーマとして残ることになるかもしれない。しかし、エンプロイヤー・ブランディングは常に改善し続けることが何よりも重要であるので、少しずつでも前進することができれば、十分ではないだろうか。
スマホの爆発的普及
電車に乗ってふと周りを眺めると、8割~9割方の人がiPhone等のスマートフォンを触っている。そのような光景に何度も出会ったことはないだろうか。
総務省が公表する「平成29年版情報通信白書」によれば、スマートフォンの保有率は2011年に14.6%だったものが、2016年には4倍の56.8%に上昇している。さらに、世代別に見ると20代と30代では2016年時点で90%を超えており、日本人のコミュニケーションのあり方、情報の受け取り方が大きく変化していることは疑いが無い。
【スマートフォン個人保有率の推移】
(総務省 数字で見たスマホの爆発的普及(5年間の量的拡大)平成29年版情報通信白書 より)
近年の格安スマホの登場や主要キャリアの積極的な販売攻勢を踏まえれば、2018年の状況はさらに変化していると推測される。
コミュニケーションのあり方に変化が訪れていることを認識し、人々がどのようにインターネット情報や知人間情報に接しているかを理解して情報発信や情報共有を行うことが、もはや「重要」ではなく、「当然」の世界になったと言えるだろう。例えば、採用に関するやり取りが、メールではなくLINEを通じて行われることは、現代の多くの大学生にとっては違和感が無いという事実があるとしたら、企業経営者や採用担当者はどう感じるだろうか? 日本でも、採用に関するあらゆるコミュニケーション(求職段階から選考、入社まで)を一括して行えるプラットフォームが近いうちに登場するだろう。
CSとESの関係
それでは、「従業員経験」を改善すると自社にどのような影響があるのか? 前述の「そんなことをやって売上が上がるなら苦労しない」と言う経営者には耳よりな情報かもしれない。エンプロイヤー・ブランディングの取り組みの程度と従業員の生産性は、相互に関連性があることを示す海外の調査結果がある。エンプロイヤー・ブランディングに高いレベルで取り組んでいる企業は、従業員が高い生産性を発揮しており、中途半端な取り組み、または、全く取り組んでいない企業はやはり生産性も低いという結果だ。
「幸福感は伝播する」、「感情は伝染する」と言われる。EQ(Emotional Quotient、感情的知能)について理解のある人ならばすんなりと受け入れられると思うが、売上と利益をもたらしてくれる顧客と接するのは、基本的に前線に立つ従業員であり、その従業員が強いエンゲージメントを持ち、高い職務満足感をもって仕事に臨んでいれば、その態度や雰囲気は顧客に伝わる。製品やサービスの「顧客経験」には従業員とのコミュニケーションも含まれており、顧客は敏感である。居酒屋で飲んでいても、店員の機嫌と態度が悪ければ酒はまずくなるし、もうそのお店には行こうと思わない。エンプロイヤー・ブランディングへの意識的な取り組みが高いESを実現し、高いCSと顧客ロイヤルティを生み出すことは疑いない。
エンプロイヤー・ブランディングと企業業績についての日本における研究は皆無であり、これからの研究が待たれるところである(もちろん、職務満足感と売上の関係等の研究はこれまでになされている)。
エンプロイヤー・ブランディングにおける11の方針
以上、エンプロイヤー・ブランディングについて理解を深めるために、架空のストーリーを手始めとして、「エンゲージメント」や「従業員経験」、「雇用ライフサイクル」といった概念を交えながら、組織における具体的な問題や生産性との関係について述べてきた。
最後に、エンプロイヤー・ブランディングに意識的に取り組みたいと思っている企業や組織のために、骨子となる「11の方針」を紹介する。
①自社が望む「顧客経験」とそれを生み出すための「従業員経験」について、一つの「ブランド経験」として統合的にとらえ、明確なビジョンを持つ
②顧客と従業員により良い「ブランド経験」をもたらすために、どのように優れた価値提案を行うかについて経営者や従業員が教育訓練を受け、価値提案を支援するシステムや制度、各種の施策を整備する
③「雇用ライフサイクル」に対して、全体的、かつ、一貫したアプローチを継続するために、プロジェクトリーダーとメンバーには組織横断的に活動してもらい、それを支援する
④「従業員経験」を改善するために、自社の慣行や組織文化において変革が必要なものを特定し、会社の制度や方針を整備して変革に寄り添う
⑤「従業員経験」の評価を行い、どの「接点」が従業員に印象的に映り、感情的な動きをもたらしているかを把握した上で、改善または改革を行う
⑥自社が望む「ブランド経験」の表現とそれを裏付けるために、組織横断的に支援や教育訓練を実施するような統合的なコミュニケーション・プランを開発する
⑦自社の従業員として好ましい行動を取る従業員を選び出し、「ブランド・アンバサダー(代表・大使)」に任命する
⑧優れた「ブランド経験」をもたらしている態度や行動を取る従業員を、表彰する
⑨エンプロイヤー・ブランディングの取り組み自体を評価するために、従業員から定量、定性、両方のデータを収集してフィードバックを受け、レビューを行い、ギャップを見つける
⑩物理的な意味でも、精神的な意味でも、職場は従業員の生活スタイル上の重要な位置を占める。したがって、断片的な改善ではなく、常に全体的なアプローチを心がける
⑪創造性豊かなエンプロイヤー・ブランディングを実現するためにITを活用すべく、経営者とプロジェクトリーダー、メンバーはITについて学習し、実践するように心がける
総括
「エンプロイヤー・ブランド」とは、「雇用によりもたらされ、企業によって特色のある、職務的、経済的、心理的な恩恵のまとまり」と1996年に発表された論文で定義付けられたものである。それ以来、海外を中心に様々な議論、実践、研究が積み重ねられ、少しずつ解釈や意味に幅が出てきているように思う。
私は、「エンプロイヤー・ブランド」を簡単に表現すれば、「働く場の価値イメージ」だと考えている。イメージを想起するには表現が必要であるし、イメージを実感するには価値を裏付けるための実践と実態が不可欠と言える。要するに、「言っていること」と「やっていること」が一致して、会社の取り組みや職場の価値が従業員・求職者に前向きに伝わることで、ブランド力は高まるということだろう。
しかし、日本では長く商いに従事してきた人々によって独特の哲学が生まれ、100年を超えて生き残る企業が少なくない。今更そんな当たり前のことを、私から言われる必要はないだろうし、ましてや、アメリカを中心とした海外から言われる必要もないと思う。
人を経営の中心に考え、例えば「三方良し」の精神に則って日本の商売人たちは事業に取り組んできた歴史があるのだから、私たちは日本人としての矜持(誇り、プライド)を思い出し、それを取り戻すだけで良いのではないだろうか。
エンプロイヤー・ブランディングの考え方は、海外発信ではあるが、その精神は元々日本にあったものと非常に親和性が高い。「働く場の価値」を体系的に高める取り組みとしてエンプロイヤー・ブランディングが浸透し、日本で働く多くの人たちが、幸せになることを願うばかりである。
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